散る羽根に霞む視点

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散る羽根に霞む視点

 自分が願ったものの一つであったはずだ。

 私はこれがきっと一番良いと思って……なのに彼は笑顔を張り付けながらも、近しい者には気付かれてしまうような悲しい表情をしている。
 一見華やかなこの式典では、彼の気持ちなど考えようともしない者達だけがそれを祝福し、ただ無意味に笑っていた。
 だがそんな者達を私が見下げることなど出来やしない。

 何故ならこれが私の思い描いた流れで、そう仕向けたのも私なのだから。

 幼馴染の一人である白髪の獣人はその金の瞳を、壇上で婚約の儀を執り行う友人ではなくこちらに向けては言葉ではなく視線で告げてくる。
 『お前のせいだ』と。
 ライトがどこまでを知っているのかは分からないがその目は私を責めるように細められ、元々後ろめたい気持ちがある私には自分の行為を咎められている気がしてならなかった。
 目を合わせることが出来ずに、でも自分のしたことからは目を背けてはいけない。そう思って、自分が彼に無理やり決断させたこの婚約の儀の一部始終をしっかりと……心に焼き付けた。

 昼は高い空の下で行われた式典も夜は城内で行われて、決して狭いわけでは無いというのに四方の壁が息苦しさを感じさせて堪らない。
 それは昼と夜とで大きく違う状況がそうさせているのだと私も分かっている。
 あの子は私と同じ道を選ぶことは出来なかった。
 勿論当人の未来を思えばそれは最良であり、前に進んだことを褒めてやりたいくらいだ。けれど私の厚かましい我侭を言うならば、私では埋めてあげることの出来ない彼の空虚を代わりに近くで埋めてあげて欲しかったと。
 多分これから再び以前のように面を被ることを覚悟したのであろう、彼のあの影のある笑顔を見つめながら自分勝手なことを独り思っていた。

「ほら、きちんと挨拶しなさい」

 父親に初めて連れて来られた城で、初めて見る王子様。
 当時既に上の兄姉よりも期待の降りかかっていた彼だが、兄弟仲だけはうまくいっていなかったらしく外から呼ばれた年頃の近い者。それが私やライトだった。
 城勤めの私達の父は、子ども部屋とは到底思えない玩具一つ置かれていなかった広い部屋で挨拶を促す。
 子どもにしては真面目なほうだったと自分でも思うが、それでも所詮は子ども。初めてのことだらけで挨拶もろくに自分から出来ない私に、彼は自ら先に名乗り出て握手するべくその手を差し出してくれた。
 立ち振る舞いも既に立派な王族。それは当時の私に、幼いながらも一瞬にして自分とは違う世界の人なのだと植え付ける。
 そんな人と話せているだけでとても誇らしい気分になって、家に帰ってからはずっと自慢げに弟達に話していたことが懐かしくて……恥ずかしい。
 今思えば私は全然彼のことを見てなんかいなかったのに。

 逆にライトはと言うと私とは逆に王子に臆することなくさらりと挨拶をかわし、それどころかすぐに名前を呼び捨てにし始めた。
 羨ましい気持ちと、そんなことはいけないという気持ちとで最終的にはライトに『いけないんだ!』と食って掛かり、王子を挟んではその態度で度々喧嘩になる。
 私達の両親は王子は勿論、自分の子ども達にも種族の偏見を無くさせようという思惑もあったようだったが、王子はさておき私にとっては逆効果だったと思う。多分、ライト達もそうだろう。

 最初に彼の態度に壁を感じたのはそれから半年も経たぬうちだった。
 私は出会った時から変わらず彼を子どもなりに王子として敬い続けていて、それに対していつだって変わらぬ笑顔で彼は接してくる。
 けれどふと気付く、その笑顔にも差があることに。
 ぶっきら棒で、たまに王子をいじめているんじゃないかと思うくらいの無茶苦茶な接し方をしているライトに向ける笑顔が……私が普段正面から見ているものと違う、と。
 幼い私にはその理由は分からずただちょっと首を傾げる程度だったけれど、あの時それを理解出来ていたならば生き方を変えられたのかも知れない。

 けれど後に気付いた時、私には既に別の信念が根付いていて、彼だけの幸せを願えるほど純粋ではなくなっていた。
 クリスのように王子の身一つで全てを引き換えにしてもいいだなんて思えない。家族も、稽古を共にした仲間も、父が大切にしていた国も皆……私にとっては掛け替えの無いものだから。
 
 
 
 最初は、幼い頃からそうして接してきた彼の近くに行きたいという小さな願いから私は騎士の道を歩む。親からは女として生きる道もきちんと用意されていたが私はその道を選ばずに剣を振るった。
 やがて城内で従事することが決まった時、私の中ではそれで全てが達成したような気になっていて一番浮かれていた時期だろう。
 会う機会も昔と比べれば随分減っていた王子は、変わらぬ笑顔を振りまいて城内を歩いていた。成長後も絵に描いたような聖人ぶり。彼の肩には以前にも増して家来と民の期待が乗っていて、彼が周囲に期待される素晴らしい王子であればあるほど、昔から知る仲としては誇らしかった。
 一兵士でしか無い自分だが他に比べたら声を掛けられる機会も多く、彼は私が軍兵になったことを一応祝ってはくれたが、少し残念そうな顔も見せる。そう、この頃の私は彼の笑顔の小さな差に、だんだん気付けるくらいにはなっていたのだ。

「何か不都合でもございましたか?」

 そう問いかけてみると彼はやはり笑って言う。

「不都合なものか。ただ、そう……良いものではないからね。レイアのような性格だと少し心配になるんだ」

 言葉を濁す彼は、私ではないどこか遠くを見つめていて……でもその時は心配をしてくれたということにこれまた舞い上がるだけで、意味を深く考えるまでには至らなかった。
 まぁその辺りはしばらくしたなら否が応にも実感させられ、世の中の理想と現実の差を思い知ることになる。内側に入ってみることで初めて分かる、人の醜さを。
 有能過ぎる第三王子が上に就いてはいずれ損を被りそうな連中は第二王子に取り入ったり、女王ならば実権を奪うのも容易いと王女を持ち上げようと画策する者どもが居たり。すんなりと第一王子が即位出来ない状況故に派閥争いは随分凄惨としていたのだ。
 唯一の救いといえば、それでも城内ではまだ圧倒的に第三王子を推す声が強かったことか。だがこれでは兄弟仲がうまくいかないのも当然である。
 大抵そういう連中は過去に何かしら績を残しつつも、今はそれに胡坐を掻いてのさばる始末。安穏としてしまった国内が逆に堕落を生んでいることは明白で、王子の心配通り、私のような性格では堪えかねられるものではなかった。
 だが一兵士でしか無い自分に何が出来る?
 まずは意見を言える立場までのし上がらなくてはどうしようも無い。
 クラッサが言うような外部からの武力による介入、東方のようなクーデターなどそういうものではなく、私は純粋に内側から変えようと思い立つ。それがどんなに困難なことか、頭だけでは分かった上で……

 自分の気持ちは時として押し殺さなくてはならない。だが下が着いてこなくても困る、出来る限りの善行はこなす。後者は問題無いが、前者がかなり難しい。この二つはたまに矛盾することがあり、優先させるべきはまず前者。でなければ上に引っ張り上げてなど貰えなくなるからだ。
 こんなことを続けていたある日、自分が王子と同じような笑顔を張り付けていることに気がついた。彼がどういう思いでそうしていたのかは知らないが、彼も私と同様に自分の気持ちを押し殺しているのだ、と。
 その事実は私が気付いてから比較的すぐに現実となって訪れることとなる。

 ある日、城には一人の盗賊が入り込んだ。
 どんな技を使ったのか、それとも魔術なのか。忍び込まれたのは王妃の部屋で、よりによって第一発見者は第三王子。つまり私の幼馴染であり、敬愛する彼だった。
 王子が見つけなければきっと誰に盗まれたかも分からないままその場は見過ごされたであろう犯人像。慌てて兵が追おうとも後の祭りで捕えることは出来ず、その場は騒然とする。
 そして更に周囲がどよめくこととなる台詞が王子の口から発せられたわけだ。
 『あの女性が欲しい』という爆弾発言が。
 彼女との接触の際、一体何があったのか。それとも単に見目に心を奪われただけか。
 事実は分からないがとにかく王子の初めての我侭に慌てつつ、どうにかしようと賞金を跳ね上げさせ必死に追跡するも空振りが続いた。被害は報告されるのに全く網に引っ掛からないのだから、とんでもない女だと今でも思う。
 その後のことは軽くクリスに説明したように、王子はそれから面を被るのをやめてしまった。逆に言えば今までの彼は偽りだったと言うことだ。
 どうしてその時にやめてしまったのか……彼の気持ちは想像することしか出来ないが、一つの望みも叶わない立場など守っていても仕方が無いと思ったのかも知れないなと私は思う。自分を押し殺し、我慢して保っていた評価も結局は彼にとって何の利益も齎さず、無価値だと感じてしまったのではないか、と。
 それだけならまだしも、その後の周囲の対応が更に彼を荒ませてしまった。元々溜まっていた鬱憤も手伝っているのだろうが転がり落ちていくのは驚くほど早く、止めることは私などでは出来もしない。
 家臣達は頭を抱えて落胆するだけでどうしてそうなったのか考えようともせず、そしてそれは私も同じ。
 勝手に期待して、勝手に失望し……誰か、ではない。誰もが、愚かだったろう。

 周囲が声をかけて諌めようとしてもその言葉は届かないどころか全て見事に返されてしまう。言葉の裏を突き、見下げ、しかし誰も反論など出来なかった。それは突かれた部分が皆の本音だったからだ。
 どんなに良識を塗り固めた素晴らしい言葉も、彼にはそれが『本心』として聞こえなかったのだろう。
 本当に心に響く言葉、というのは私達のような立場の人間から伝えるのは難しい。純粋な言葉ではなく、必ずそこに様々な意図が付加されてしまう為である。
 従者だから、元の扱いやすい主に戻って欲しい。親だから、子どもには良い子で居て欲しい。心の底から彼のことだけを想って言葉を紡ぎ出せた者はきっとあの時、居なかったのだ。

 そしてそれを彼は、見透かすことが出来てしまう人だった。
 
 
 
「あの時に城を出たのはやはり、私の平手打ちが原因でしょうか?」

 私は城に戻ってきた彼に聞いてみたことがある。王子に手をあげた数日後に姿を消してしまったという揺るぎない事実は、ずっと気がかりだったから。
 私が添削した書類をしかめっ面で眺めていた彼が質問にペンを持つ手を緩め、こちらに顔を向けて言う。

「そりゃま、そうだろう」

「…………」

 あっさりと肯定されて、自分から聞いたくせに返す言葉も無くなった私に続けてもう一言。

「あの時は若かったんだよ」

 少なくとも彼はもう全く気には留めていないような、ただ懐かしいものを思い出すだけの瞳で。
 ワハハと笑う王子の手は完全に止まっており、報告書類を直すのも飽きていたのかその話題を掘り下げていった。

「お前も含めて全部がウザかったな。腹ん中じゃ何考えてっか分かったもんじゃねーのに口先だけで機嫌取り、説得。皆死んじまえって思ってたぜ」

「も、申し訳ございません……」

 あっさり言ってくれているが、随分と痛い指摘をされているのは間違いない。気がかりだった部分はまさに想像通りで、今までの後ろめたさを肩から下ろすように私は謝る。
 下げた頭から垂れる前髪が白磁のテーブルについてしなり、顔も見えなくなった王子からは先ほどから変わらぬトーンでまた言葉が紡がれた。

「いやどう考えても俺が悪いだろ? 怒られた時に気付けたらまだマシだったのになぁ」

「え?」

 私は王子の居ない二年間、ずっと自分達が悪いものだと思って悔やみ過ごしてきていたのに、ぽんとひっくり返すように彼が言うので思わず顔を上げてその目を見る。
 別に真面目でも何でもない、今やこれがいつも通りのだらしない顔で王子は言った。

「他人の悪いところしか見えてなかったんだ」

 さり気なく書類を片付け始め、ペンをその上に置き、

「それまでの俺が一番腹黒かったのによ」

「んぐっ」

 あの頃の自身を『腹黒かった』と打ち明けられたことに色々な意味で衝撃を受けた私の喉が一瞬詰まる。
 そして今日の職務はおしまいだと言わんばかりに席を立った彼は、ここが自分の部屋だというのに私から逃げるように左手をひらひらさせて出て行ってしまった。
 残された私はというと軽く言い放たれた言葉を深く考えてしまい、王子が職務を早々に切り上げてサボったという事実に気付くのが大幅に遅れてしまったのである。
 
 
 
 一国の王子が失踪して二年……ようやく戻ってきたかと思えば彼は、城の者にとっては素性もよく分からない少女を連れて来て、長期にわたるであろう大陸全土の調査を発起して王にいきなり提言した。
 勿論突然帰って来た問題児の提案など、内容などまずおいて単純に気に食わないと反論する者も出る。だが彼が言葉巧みに話をまとめ、王に了承のサインをさせることにあまり時間は掛からなかった。
 裏に『クリスの為』という理由があろうとも、表向きにやることは簡単に言えば世直しの下準備だからだ。
 人の良い王は息子の家出すらも良い経験だったとプラスに捉えて受け入れ、それによって不変を望む者達が浮かび上がってくる。不変を望む者とはつまり、今必要以上に美味しい思いをしているような連中だった。
 多分城を出る前からずっとその者達をどうにかしたいと思っていたのだろう。王子は分かりやすいくらい彼らにぶつかっていた。

 しかしその力に奇跡を謳われたとはいえ、確実に周囲を味方につけるには過去を清算しきれていないし、そもそも戻ってきた後の遊びっぷりはどうにかならないのか。
 多分彼としては自分が最終的に王になる気など無いのかも知れない。ただ気に食わなかった者達を追い出したいだけで。多分、と一応言っているがほぼ間違いなくそうだろう……
 とても後先を考えているとは思えない行動に悩まされつつ、出来る限り彼を抑える側に回っていたら自分の後ろには彼の当面の敵と思われる者達がついていて、彼らを守る構図になっていた。
 決して王子と敵対したいわけでは無いのに、おかしなものだ。

 王子のやりたいことは分からないでも無い。だが彼のやることは結局クラッサの考えと同じであった。方法は違うが結末は同じだということである。
 一時的にそういう連中を葬ったところで何になるという? また別の者がその椅子に座るだけだ。
 つまり、それが出来ないシステムを組み上げてからでないと意味が無いと私は思う。だが現在の王はそういった改革には向いていない。そういう意味で言うならば、王妃のほうが余程行動を起こせるタイプだった。今思えば彼女はとっくに行動を起こしていたわけだが……国ではなく子どもの為という名目で、結局は自分の為に。

 今はこれでいい。
 私が周囲に分かるように王子とぶつかれば、後ろにのさばっている連中はまず私を使おうとするだろう。己が可愛い連中は王族に自ら楯突こうなどとはしない。他人を使うのだ。
 私のやることに多少の不満があってもそちらの利を取ってか、王子が戻ってきてからは特に階級が上がるのが早かった。何かあったらお前が動け、そしてその責任を一人で取れる立場へとある意味無理に押し上げられていた気がする。
 好都合だ。
 立ち位置としては王子の邪魔者でしか無いのだろうが、決していがみ合う間柄なわけでも無い。最後の最後で手の平を返すところまで私は耐えてやろう。そう、思っていた。

 しかし感情はそううまく制御出来るものでは無く、正直な話、少しは異性を異性として接する機会を作っておくべきだったと後悔する。
 私がやりたいと思うことに、私自身のその感情は邪魔でしか無かったのだ。
 元々は憧れくらいのものだったのに、戻ってきて理想とは掛け離れていたあの馬鹿男を見てもその気持ちが薄れないのだから。

「お姉様は男を見る目が全くありません」

 私と同じ琥珀色の髪と瞳。妹は小さい頃から王子が嫌いだったこともあり、彼が戻ってきてからはそんなことを言って私に釘をさす。

「世の中、善人なんて一人たりとも居ないのです。ましてやあの糞……ん、んんっ、王子なんて今は分かりやすいくらいにダメ男ではありませんか」

「それはそうなんだが……」

 多分妹は自分自身が典型的な猫被りだから、本能的に彼を同類として捉えていたのだろう。いや、本能も何も、全ての相手を見下げて生きているような言い草ではあるが。
 私よりは女らしくあれと育てられているものの、やはり私の妹。アクアは一応見た目だけは母の意向に沿っているが私よりも内面はガサツで手に負えない。
 王子同様に、抑圧されるとこうなるのかという見本が身内に居て、そんな妹でもしっかり見てやらねばなどと思っている自分に気がついた時……

 あぁ、この性分では王子のあの程度の馬鹿っぷり、むしろ可愛いのだ。
 そう実感し、様々な感情を込めて妹の頭を撫でた。
 
 
 
 クラッサに言ったように、私は別に自らの手でこの国を変えようなどとは思っていない。それは正直な話、無理だと思う。どんなに位を上げたところで必ず最後に立ち塞がる壁がこの国の体制にはあった。
 王族だ。
 家臣、部下の実力を彼らがどんなに認めようとも、跡継ぎが一人でも居る状況ではそれが崩れることは無いだろう。
 だから、自分で変えられないならば……当人達に変えさせたら良い。
 自分の扱いやすい者を王に仕立て上げようという意味では他の家臣と私も過程は何ら変わり無いが、最も被害最小で改革を行う為に、何としてもあの王子を押し上げたかった。
 無論、放っておいても王にはなる流れだが、大臣達と敵対したままの状況では正直その改革もやりにくいものとなる。既に敵対気味の双方のクッション代わりに奔走し、王子にとって周囲に突かれるポイントとなるような部分を必死に打ち消す日々。

 クリスに関しても……そうだった。
 あんな贔屓はまずい。下々に平等公平であるべき王が分かりやすいまでに外部の者である一人の少女を優遇していては、正直目も当てられないし言い訳も出来ないではないか。
 反感を買わせない為に、クリスに関する用事は私がなるべく足を運んで他の部下を使わせないよう心がけ、一時は引き離そうと画策したこともあった。
 後者はクリスが他種族と子を成せないという事実のお陰で進めることは出来なくなったが、今はそれで良かったとも思えている。
 かなり無茶をする娘ではあるが、下水に片足突っ込んでびちゃびちゃと遊んでいるような王子の状況を憂い、引っ叩けるようなタイプだったからだ。
 私から言うよりも伝わる彼女の言葉を、有り難く思い……そして、少しだけ嫉妬した。

 私にとって一番困るのは、エリオット様が最終的に玉座につけないこと。
 そう言った意味ではエマヌエル様の件は勿論のこと、クラッサ達の件も私自身の目的の大きな障害だった。何しろ、彼が彼ではなくなってしまうのだから。
 どちらの件も、自分の身を捨てる覚悟で止めに望む。
 あぁでも私がそこで離脱したならば、王子に改革を行って貰うことは出来ないかも知れない。可能性はゼロでは無いがどちらの時もそこまで考える余裕など無く、ただ止めることだけに必死だった感は否めなかった。
 私は目的の為に彼に仕え続けるつもりで居たものの、結局のところはそんな理由など抜きにして……単純に一緒に居たいだけとも言える。
 王子を咎める時も度々私は本音を別の理由で塗り潰しており、そんな私を彼はいつだって……分かった上で指摘して来ないのだ。

 自分の理想、目的、恋慕の感情……少しも定まらない己の心が、どれをとったとしても彼の重荷にしかなっていないこの事実。
 王子に必要とされている少女が去る一方で、そんな邪魔なだけの私がこの場に居座るのだから彼も踏んだり蹴ったりだろう。
 弱音を吐こうとすればいくらでも出てくるこの口を噤み、代わりに、思い描く未来を見据えて意志を強く持てと頭で自分に言い聞かせる。

 途中で投げ出してしまっては、顔を上げて歩けなくなるから。

+  ここの文章は大元小説でのクラッサが生きている前提の内容の為、なろう版とは矛盾するので閉じます(クリックで展開)

 
「あの子が気に食わないかい?」

 結局消えた王子を追って来た極東の地で、クラッサを拘束した後は出来ることの無くなった私は、全てをクリス達に託すしか無い状況になっていた。
 私にはクリスの行動の意図は掴めないものの、それを問う時間も無いので敢えて何も聞かずにその背中を見送るだけ。そして、その背中を憎々しげに睨みつけているクラッサを見張るだけ。
 私の問いに対し、土の魔法で拘束されているクラッサはその黒い瞳をこちらに向けて細める。

「准将なら分かるでしょう。あの子の何が気に食わないのか、くらい」

 土塊に垣間見えるクラッサの肌には、顔だけではなく全身至る所に火傷の痕。痛々しいその傷から目を背けながら、私は彼女の言葉の意味を考えていた。

「羨ましいのだろう?」

「っ、何を言っているのです」

 クラッサは私の結論に対して異があるようだが、私にはそうとしか思えないし、見えない。
 クラッサ達とクリスはきっと、同じである。にも関わらず、立っている場所は真逆なのだ。
 自分本位で、手を汚すことを躊躇わない、実際その手は両者共に汚れている。しかし望むものが違うだけでその立ち位置はこうも変わっていた。
 クラッサからしたならば、近い存在にも関わらず日の当たる場所で堂々と過ごしているあの子が羨ましいのだと。なのに周囲から守られ、悪く言えば甘やかされているあの子が。

「同族嫌悪、と言われたほうが受け止めやすいだろうか」

 妬みの部分を除いて述べてみると、拘束されていても分かるほど彼女の体に力が入る。

「分かっているではありませんか。あの娘はこちらを悪と見做して自分が正義気取り。ですが……決してそうでは無い」

「それは、どうだろうね?」

 クラッサの言いたいことは分かった上で、彼女に疑問を投げ掛けた。多分彼女は私が肯定すると思っていたのだろう、途端に顔を歪めて舌打ちをする。幻滅した、と言わんばかりに。
 私は僅かに散った右の名残羽を撫でながら、そんな彼女にもう一押ししてやった。

「他人と関わって生きる以上、大衆に認められたならそれが正しいものとなるのだよ。一人一人の価値観は違えど、結局は多勢の周囲がどう見るかだ」

「多数決の結果が必ず正しいとでも?」

「そういう次元の話をしているんじゃないことくらい、君も分かるだろう」

 そう、分かっているはずだ。だからこそ、彼女の感情はきっと最終的に嫉妬なのだと私は思う。
 本当に正しいかどうかだなんて誰にも決められない。だから、本当にではなく『大衆に認められる正義』が世の中の物差しとなるのだ。そして私は、それを国の在り方として目指す。
 クラッサはそれっきり黙ってしまい、見えやしない建物の奥所では幾度も何かが光っては劈くような音が響いていて、正直何が起こっているのかと不安になった。それでも下手に見に行って足手まといになってはいけない、と逸る気持ちを抑えて天を仰ぐ。

 その後、一時も気が緩むことは無く張り詰めていた空気は、凄まじい勢いで広がってきた炎のような何かで打ち消されることとなる。
 意識はそこで途絶え、私が次に見たのは絶望の黒。私同様に炎に巻かれて意識を失ったのだろう、まだ瞳を閉じたままのクラッサの拘束を解く、黒尽くめの男の姿だった。

「……っ、うわ」

 私が意識を取り戻したことに気付いていない男は、クラッサに巻き付いていた土塊を崩すなり現れたその肢体に慌てながらも上着を手早く脱いで着せている。
 この男がここに戻ってきたということは、クリスは王子を救えなかったのか。
 全てが終わった、と思った。
 足掻いたところで無駄だと感じて起き上がる気力も喚き散らす気力も出てこない。普通に考えたなら悲しいはずなのに、ショックが大きすぎてか涙も零れないこの瞳を薄らと開けたまま、焦点を合わせるわけでもなく彼らをただ視界に入れる。

 一度戦ったことがある相手だが、だからこそ、どういう者なのかは何となく分かっていた。敵の手当てまでするくらいだ、本来は争いなど好まない性格なのだろう。
 クラッサに息があることを確認して安堵の表情を見せる男は、敵であり仇であるにも関わらず、とてもじゃないが悪とは思えなかった。
 なるほど、彼女が正しさについてあんな風に固執した様子を見せるのも頷ける。
 敵には敵の事情があり、それが彼らの通すべきもの。そして私達はそのぶつかりあいに負けただけ。
 そこでようやく私の目からは涙が溢れてきた。
 元々声などあげて泣くほうでは無いがこの時もやはり嗚咽は漏れず、ただ目尻に溜まってゆくその水が一筋の跡を頬に拵える。見える景色は少しずつ滲み、歪んで、かと言って視界を良くする為に涙を拭おうという気も起きなくて……
 何も見えないままだったが、ようやくクラッサが目を覚ましたらしく声だけが音の情報として私の頭に入ってきた。

「ん……」

「大丈夫か?」

「え? あ……っはい!!」

 状況把握に長くは掛からなかったようで、すぐに彼女の声色は明るいものとなる。
 私はと言うと後を追って死ぬような価値観は持ち合わせていないものの、生にしがみ付こうという気力が湧かなくて指一つ動かず、辛うじて動かせたのは瞼。開けていても無意味な物をゆっくり閉じるとまたもう一筋、雫が頬を伝った。

「ほぼ予定通りの流れで事が運んだ、と思ってよろしいのでしょうか?」

 彼らの一番の目的は王子の体を使って自分達の体を治すようなものだったか。クラッサの問いに、若干違和感のある間をおいて男が答える。

「……い、いや、最初から予定外の事だらけだったんだが、最終的に大方予定通りで、でもその被害と影響が尋常じゃないと言うか」

「どういうことでしょうか?」

「け、結論からするとだ、俺の望みは叶った。だが諸事情で創造主が消えてしまって君の見たいものは見られな……」

 やはり違和感のする言葉の途切れ方で進む会話は、先程よりも長い間をおいてから続いた。

「問題、ありません……消えたと言うのならば、その事実を知ることが私にとって重要なので」

「そうなのか? それならいいんだが……」

 二人の、微かに震えを帯びた声、言葉が私の脳内に白く積もってゆく。閉ざされた未来と失われた希望が、次に何をすればいいのか考えさせてくれない。
 そこで、じゃり、と大きく動く音が聞こえ、その音がこちらに近付いてくるのを感じた私は閉じていた瞼をゆっくりと上げた。
 まだ少し滲んだ視界は閉じる前よりも眩しくて、二、三度瞬いてから、私を見下ろす二人を鮮明に映す。
 スーツの上着を借り、私のマントを腰に巻き直したらしいクラッサと、そんな彼女に上着を貸したお陰で上は薄手のシャツのみになってしまっている男。
 並んでいる所を見るとまるで兄妹のよう。

「聞こえていたよ。生憎と武器は壊れてしまっているし、抵抗などしない」

 最後に笑うのはクラッサだった、と言うことか。呟いた私に、完全に立場が逆転した状態で勝ち誇った笑みを浮かべる彼女。
 だが、その隣に居る男の表情がそれとは随分釣り合いの取れないものだったので、私の眉間に思わず皺が寄る。そして、そんな私に気付いたクラッサが自身の上司に目を向けて、やはり私同様に眉を寄せた。

フィクサー、様?」

 問いかけられた黒髪の男の表情は、全くと言っていいほど喜んでいなかったのである。むしろ困り果てているような、そんな顔。
 名前を呼ばれてからは更にその顔に憂いが帯び、

「ユングでいい。アイツが居ない今、その呼び名はちょっと……堪えるからな」

「それは、つまり……」

セオリーは死んだ。遺体は確認していないが、封印が解かれていたにも関わらずその場に居なかったからまず間違いないだろう」

 言い放ったその顔は、この場に居る誰にも向けていないが瞬間的に殺意を感じるもの。セオリーを殺せば封印が解けるみたいなことをクリスが言って走って行った覚えがあり、それをしたのはきっとクリスで、この男の殺意はあの子に向けられているのだろう。
 けれど男はそんな負の感情を払うように首を振ってから続けた。

「後はもうどこから説明していいのか……簡潔に言うなら他は皆無事だ。敵味方関係なく、な」

『!!』

 告げられた内容はあまりに予想外。私もクラッサも目を見開いて食い入るように男を見る。
 こちらの反応に関しては予想通りだったのか、その剣幕に驚くことなく男は言った。

「だがその代償は高くついた。で、お前んとこの馬鹿王子がそれをどうにかする為に、俺とクラッサにまで手伝えとよ」

 皮肉な物言いで溜め息まじり。
 そして事の流れを一から説明され、若干私には分からない部分もあったがクラッサのほうは大方納得していたように見える。
 体を起こしてその話を聞きながら、実に王子らしい切り替えと無茶振りだな、と思ったら『あぁ本当に無事なのだ』と頭でも心でも実感が湧いてきて……絶望に染まっていた視界に再び色が灯ったにも関わらず、それが見えなくなるくらいまた私の景色は滲んでいた。

「では、あの王子はこちらを見逃す代わりに途方も無い調査をし続けろ、と言ってきたのですね」

「まぁそうなるな。だが俺は逃げ切れるだけの力は持ち合わせているし、クラッサが嫌だと言うなら逃げる手伝いくらいはしよう」

 人が黙って聞いているのを良いことに、王子の持ちかけた話を蹴って退けるような発言を、この私の前で堂々としてくれる。
 武器も無い、あった状況でも以前完全に負かした相手など眼中に無いのかも知れない。
 男はあくまでクラッサに是非を問う。ええと、この男はクラッサの上司、雇い主のようなものでは無いのか。言葉遣いはさておき、やたらと丁重に扱われている気がしてならないが、クラッサもその扱いに流石に驚いているらしくその細い目元が少しだけ丸くなる。

「あ、あの、ユング様自身はどうお考えになられているのでしょうか」

 無事だと言う王子の所在が気になるが、話が事実ならばこの連中の動向も把握しておく必要があり、王子がここに居ない以上私が離れるわけにもいかないだろう。
 妙に鼻につく焼けた空気、だが吹く風が少しずつそれを薄れさせていた。髪を撫ぜる乾いた風に声をやや掻き消されながらもクラッサが男に問う。すると男は頬を掻いて苦笑。

「折角願いは叶ったのに、いざ達成してみたら他にすることが何も無いんだ。だから今度は君に手を貸そうと思う。俺の件で君は完全に面が割れている状態でお尋ね者だからな……」

「それは……」

「折角育てた竜もパァだぞ。見たか? あのビフレスト、去り際に施設の天井全部ぶち壊して竜を逃がして行きやがった。まだ残っていたなら施設や従業員ごと売り渡すことも出来たのに……脛に傷持つ連中を放るわけにもいかないから当面はまず部下のフォローが俺のやること、だな」

 ぶつくさと不満を述べる男はどうも随分と面倒見が良いようで、ここに来て部下の先々を考えてはしかめっ面になっていた。
 クラッサが慕う理由も納得の、決して見放したりしないその姿勢は私の中でもかなり好まれる上司像。時と内容さえ違えば物凄く仲良くなれたのでは無いだろうかと思ってしまうくらいだ。
 しかし問題はそこでは無かった。
 クラッサが何をこの男に要求するのか、そう思ったら体が強張ってくるのが感じられた。そして、そんな私に彼女は気付いているようで冷たい視線を送ってくる。
 ただ、全くその空気が読めていないらしい男だけがまだぶつぶつと、

「元に戻ったらルフィーナに再度アタックしたいとか思ってたのに、あれはもう完全に嫌われたよ。絶対無理、すんごい怖かった……って、聞いてるか? クラッサ

 多分恋愛話なのだと思うが、普段からそんなことをクラッサに相談でもしているような流れで自然に問いかける。

「えぇ聞いていますよ。今頃嫌われていることを自覚しただなんて相変わらず鈍いですね……ユング様は」

 そのやり取りに先程まで入っていた力が抜けてしまいそうだ。気を緩ませるわけにもいかないので、釣られないようにこちらはもう必死である。
 私に向けられたクラッサの視線の意味、彼女の願うことがまだハッキリしていない以上安心は出来ないのだから。もし彼女が復讐を願ってしまったら、とどめをささなかった自分の判断は完全にミスとなる。しかも、この首だけで済むようなレベルでは無い……それくらいの。
 上司相手に笑いながら軽く暴言を放っていたクラッサは、それでも私から視線を外さない。
 こちらからアクションを起こせ、とそういうことだろうか。そう感じた私は、二人の軽い会話を重い溜め息で退けてから口を挟むことにした。

「……君はこれから何をしたいんだ、クラッサ

 きょとんとしている彼女の上司はおいて、私は立ち上がる。距離はそんなに遠くない。この黒髪の男に勝てずとも彼女の首を折ることは出来るはずだ。それをした後の私の身の保障は……一切無いけれど。
 返答次第で道連れにするつもりで核心となるその部分を問いかけた。
 消せなかった殺意が場を張り詰めさせ、明るい日差しの下とは思えないほどの緊張が走る。
 流石にこの不穏な空気に気付いた男は、何やら右腕を自分の胸の前でスカッと空振りするように動かし、

「あ」

 一言だけ発して胸の前で腕をそわそわさせながら、

「俺の短剣、そっちだクラッサ

 彼女に貸した上着を指差して苦笑いをした。

「ありがとうございます」

 そう答えたクラッサは上着をうまく押さえながら、懐からダークを取り出す。ここに来てまさかの得物の出現に、こちらとしてはもはや打つ手も無い。
 動けなくなったところへ声をかけてくるのは、その得物を彼女に持たせた張本人。

「何故急に殺気だっているのかは知らないがやめておけ。こっちとしてもお前を手にかけるのは得策じゃないんだ。馬鹿王子がキレるだろう?」

 相も変わらず穏便に済ませようとしているのが伝わってくる。そんな男に、クラッサは軽く事情を説明した。

「彼女は私が王族殺し、という復讐を始めないかと心配しているのですよ」

「!!」

 そこでこの場で一人驚くのはクラッサの上司だけ。驚き方からして、思ってもいなかった、という風だ。
 クラッサの顔の正面ではダークの鋭利な刀身が鈍くも光り、ちらつく輝きの合間に彼女の冷笑が見える。
 けれど、

「しませんよ」

 その表情と違って、その後に出た言葉は否定だった。

「信じて……いいのかい」

「えぇ。少なくともユング様に復讐を手伝わせるような真似はしません。もしするのなら、一人で。それも……機会があれば、です」

 にも関わらず全く安心させて貰えない。機会があれば行うと彼女は言っているわけで、とてもじゃないがこのまま見逃せる答えでは無いのだ。
 まだ緩むことの無い張り詰めた糸をやや鬱陶しいかのようにクラッサは首を振り、口角だけは上がっているのに物憂げな瞳を見せている。そしてその瞳は、私ではなく銀色の刃を映していた。

「自らその機会を探そうとなど今までもしておりませんし、むしろ現時点では王子がやろうとしていることのほうが興味深いです」

 そこまで言ってからようやく、ダークを見つめていた彼女の瞳がこちらを見るべく静かに動く。

「ですが、先刻伝えた私の考えが変わっているわけではありませんから、させたくなければ准将はせいぜい例の世迷言を実現することですね」

 感情を読ませたくないのかも知れない。
 合わせられた視線、その表情はあくまで不敵な笑みを浮かべていて、眼前に掲げられたほぼ直線の剣身を際立たせるように彼女の唇はゆったりとした曲線を描いていた。今までもよく目にしていた、普段通りの彼女。

「……分かった」

 こちらから話すことはもう無い、と私は短く答えて肺の中の息を吐き切る。
 今まで誰にも言うことの無かった私の理想は、彼女に話したことによって『なせばならぬ』こととなってしまったようだ。
 確かに彼女の考えは変わっていないのかも知れない、私如きでは変えられなかったのかも知れない。けれどその闇に一筋の光だけは差すことが出来たのではないだろうか。
 言い方や態度は悪いが、要は私に託されたのだと思う。本当は真っ当に救われることを願っていたように見える、彼女に。
 ……それなら、いい。
 ようやく力を抜くことが出来て、どっと疲れが押し寄せてきた。相当気を張っていたらしく、自分の額に汗が滲んでいたことに今更ながら気がついてそれを拭う。
 傍観していた男はそれで会話が途切れたと判断したようで、先程の話に場を再度戻した。

「興味深い、ってことはクラッサは馬鹿王子を手伝うつもりなのか?」

「何でもいいです。私も元々やることが無くてユング様を手伝っていたようなものですので」

 それだけ言って彼女が持っていたダークは懐に戻され、

「そうか」

 特に深く追求することも無く男はその返答を受け入れた。
 その後すぐの話、王子とクリスは私達の前に現れる。どこで時間を潰していたのかは分からないが、クリスの足跡と思われる汚れが王子の服に残っていて、こんな状況だというのにいつも通りの二人。
 今後は裏で手を組むような形で繋がることとなるクラッサ達と王子の雰囲気は、以前にも繋がっていただけあってそこまで険悪では無さそうだった。
 ……これならそこまで心配することも無いだろうかと思ったが、彼女達の仲間を殺してしまったらしいクリスとはどうも隔たりがあるようにも見える。
 発起したのが王子で良かった、と前向きに捉えるべきか。
 けれどもそんな大それたことを裏で始めるとなると職務に支障をきたしそうで、私の悩みの種がまた増えたようなものでもあった。クリスがどうのと遺物やらに掛かりっきりだった彼の空き時間が、今度はそちらに割かれるわけだから。

 そんな私の頭痛の種など全く関係無い。
 そう言うように極東の荒野で吹く乾風は、頭の悪そうな笑顔で私やクラッサ達にへらへらと話している王子の金髪を強く揺らしていた。

 クリスがニザフョッルの一帯を焼き尽くしてから、王都に戻ったのは結局丁度事件から丸一日強くらいだろうか。正直言って帰還してから私はかなり自分の行動順序を後悔することとなる。
 と言うのも、せめて軽く隠蔽してから出て来ないと、折角戻ってきてもその後の処理がとてつもないものになるからだ。いや、なっていたのだが。
 私が弟達に事情を話していたのがせめてもの救い、だったと言っていいだろう。事件が発覚した時点で私までもが不在とあり、呼ばれた弟はビフレストの名前を出すことで王妃に直接事情説明する機会を得ることが出来ていたらしい。
 大騒ぎになっている中、弟が一旦城を出てクリス達の元へ状況を伝えに来られたのも王妃の許可があってこそ。
 自分の行いによって結局は我が子をここまでの危機に至らせたことを彼女はどう受け止めたのか。帰還した王子と話すことで真実を知ったはずの王妃はそれからは随分と塞ぎこんでいた。
 一旦一つの事件は終結したものの、世界がどうのとそんなもの以前に私も王子も今現在自分達の目の前に積まれた問題に頭を抱える日々が続く。

「多分、もう老いることは無いだろう」

 緑に染め直した髪を床に擡げながら、その右頬をべったりとテーブルにつけただらしない体制で、王子はその言葉を黙って聞いていた。
 そして、それは少し離れた位置で立っている私も同じ。その事実を聞いて、何と言っていいのか私には分からない。
 私達を押し黙らせた張本人である少年は、その肩で跳ねた金髪を指先でいじりながらこちらの様子を伺い、続ける。

「僕ももう一人のビフレストも厳密に言えば肉体の構成は別物で、そしてそれはエリオット、君にも言える。僕ら三人は同じ力を持っているけど同じ存在では無い。だから色々違う部分はあるだろう……でも、その部分は共通しているはずだ」

「ま、通常通り年取らせてちゃ器には使えねーもんなぁ……」

「そういうこと」

 百年以上もの間、神の器となっていた少年は王子の斜め隣くらいの位置で椅子に座ってすまし顔。
 ビフレストとしての能力を持ち合わせていないユングは、多少の改変をされつつも体を奪われることは無かった故に不老を与えられることは無かった。
 だが、エリオット様は違う。たった一度奪われてしまったが為に最後の仕上げを施されてしまっただろう、とこの少年は言っている。

「まぁ、不死を与えられていないのがせめてもの救いじゃないか」

「……死にたい時に死ねるってか」

 王子の返答に、少年は小さく頷いた。
 王妃はそれらの仕様をむしろ良しとしていたようであり、権力者は確かに不老や不死を望む者も少なくない。だが王子、そして実際に不老不死らしい少年はそんなもの望んでいないのだとその表情が告げている。
 王子の部屋はいつにも増して空気が重くなっており、どう解決したら良いのか分からない問題にまた沈黙がおちた。
 話を聞いている限りでは多分、治す方法が無いわけでは無い。けれどそれが出来るほどエリオット様の知識と技量が追いついていないようだった。
 大樹の力の循環などの問題同様に我々には創造主のような英知というものが完全に欠けており、そのお陰でこうして難渋しているのだ。

「また聞きたいことがあったら呼ぶといい」

 少年は寂として声もなくなった室内に自身の声を響かせることで空気を壊し、その身長には少し高い椅子からひょいと降りて退室した。

+  大元小説での、エマヌエルが生きている前提の内容の為、閉じます(クリックで展開)

 少年は寂として声もなくなった室内に自身の声を響かせることで空気を壊し、その身長には少し高い椅子からひょいと降りて退室しようとする。
 そこへ、

「おい、ミスラ

 少年自体の名前はそれでは無いらしく、ミスラとは元々中に入っていた神の名前。だが今や家族も皆死に、昔の名前に意味など無い、と少年は特に呼び名に拘らず、だからと言って名前が無いのも不便な為結局神の名前で呼ばれる……大人に成長することの無い子ども。
 王子に呼び止められて、少年はドアの前で振り返った。

「何だい?」

「様子は……どうだ?」

 先程までの深刻な話題よりもそのことの方が重要であるかのように、王子は顔を上げて問いかける。

「まだ時間が必要だろうね」

 やるせない。そう言った悲愁を帯びた影を幼い顔に落とす少年の行き先は……城内最北端にある塔の最上階だろう。現在はその部屋が少年の帰る場所。
 静かに閉じられたドアと、その場から動けない王子。
 どちらもが『何も出来ない』という現状を呈していた。
 エリオット様に神が移された時点で、あの少年は元の人格が表に出てきていたらしい。そしてそれは、エマヌエル様の目の前で。
 エリオット様は神の憑代となっていた時の記憶が無いらしいが、あくまで不安定な状態で体を奪われていた少年にはその間の意識があったと言う。
 あまり触れられるようなものでも無いので内容を掘り下げて聞いてはいないものの、とにかくここ数年、少年はずっとエマヌエル様を見てきていたのである。
 彼の憎悪による行動や発言の、一部始終を。

 少年自身も謂わば一連の被害者の一人であり、気持ちは分かった上で真っ向からエマヌエル様を否定する。それが、体を取り戻した少年がまず最初に行ったこと。
 それが思いやりから出た言葉なのか、それとも数年間その歪みを見せ続けられていたお陰で言いたいことが溜まっていただけなのか、少年の意図する所は私には知る由も無い。
 けれど少年の行いは結果としてエマヌエル様に『次の行動』を起こさせない抑止の役割を果たしていた。
 自分をエリオット様に殺させることで彼の立場を追い込むことも厭わないエマヌエル様が、こうなった今、何をしでかすか分からない状態で少年の存在はとても有り難いものとなっている。

クリスもさ、俺の話ちゃんと聞かないんだ。ライトの言うことは聞くのにだぜ? で、兄上も俺の話は聞き入れないのにミスラの言うことは聞くって、コレ何なんだ。俺そんなに変なこと言ってるか?」

 ようやく喋ったかと思えば、まぁ情け無い愚痴が王子の口から出てきた。しかしそう言った一面を見せてくれるのはこちらとしても支えやすい。
 それまでそうでは無かった人が、弱音を吐くようになったという変化は良い方に捉えてもいいだろう。

「変なことを仰っている時も多々ありますが……その辺りは相性や関係性の問題もあると思いますよ」

「相性ねぇ」

「いくら正しいことを言われていても、大臣達に言われたら王子は多分苛々するのでは?」

「するする……ってちょっと待て、それだとクリスとの相性は、大臣並みなのか!?」

 今にも椅子を倒しそうな勢いで後ろに押していきり立った彼に、私は以前から思っていたことを伝える。

「大臣並みとは言いませんが、多分実際の所はかなり悪いと思います」

 そして多分、私や婚約者であるリアファル様とも悪いはずだ。
 エリオット様の性格を考えると、少し擦れていて、且つ余裕がある大人の女性がうまくやってくれそうな感があった。それは元々彼の好みの女性だと思うのだが、生憎縁は無いようで気の毒にも思う。
 私の意見に自分でも心当たりがあるのか、反論することなくただ落ち込む王子。『そうなんだよ、確かにしょっちゅうムカつくんだアイツ』などと小さく呟いているが、そこは聞かなかったことにして触れずに置いた。

 そこで、更なる現実に引き戻すように私はまた問題を提示する。

「そんなことよりも山積みの問題を先に片付けて頂けますか。王妃様に取り計らって貰って落ち着いているとはいえ、正式な報告もしなくてはいけませんし、私には流石に嘘を交えて辻褄が合う内容など書けませんので……」

「わーかったよもう!!」

 とまぁ、そのような流れで最終的に部屋を追い出された私は、報告書の作成が進むのかという心配をしながらも、そんな目先ではない問題が胸に渦巻いていた。
 だからと言って気の遠くなるような未来のことでは無い。王子やクリス達がこれからやろうとしている世界の修正みたいなものは、私には未だに実感が湧かないからだ。
 それよりも、目先ではないが近い未来……この国のこと。そちらのほうがずっと私の脳内を占めている。
 王子の不老が今後も治らなかった場合、王子が表舞台に立てる期間は通常よりも短くなるだろう。それまでに現在の状況を改善した上で改革に向かわせられるのか。そして、老いぬことをいつまで隠し続けることが出来、それが万が一気付かれてしまった時、彼はどうするのか。視覚を操作する魔術があると言えども見破れる者には見破れる。瞳の色などと違って問い詰められた時に流せるような問題では無い。
 彼のことだから『死んだことにでもしておいてくれ』などと書き置きだけ残して城を後にしかねない……そうなったらまさに悪夢だ。
 どれだけ考えても解決策の見つからない難題に、私はただこの空をぼんやり見上げることしか出来なかった。
 

+  大元小説での、クラッサが生きている設定での内容の為、閉じます(クリックで展開)

 ちなみに私個人の問題として、ようやくと言うか遂にと言うか……あの件から二週間ほどで処分が下される。またしても自宅謹慎、おまけに以前の部下の不始末も合わせて降格も確定だ。
 そんな私の実家の自室では今、招いた覚えの無い客人が一人、ソファで寛いでいる。

「どの程度まで片付いているのか気になりまして」

 そう言ったのは涼しげな目元が印象的な男装の麗人。その大理石のようなタイ付きマーブルブラウスの下には黒いパンツルックで、頭から靴の先まで黒一色。
 先程までその上に着ていた黒のコートを脇に置き、彼女はにんまりと口唇を歪ませ言った。

「謹慎に降格と、その辺りの調べはついています。こちらと違って大変そうですね」

 どこから情報が洩れているのか、多分まだ城内に内通者が居ると見て間違いないだろう。
 私の部屋にはソファは一つしか無く、隣に座るのも憚られる為自然とベッドに腰をかけて当たり障りの無い返答をする。

「原因はそもそも君達なんだ、少しは反省して貰いたいところだよ。それと……ほとんど片付いていないとだけ言っておこう」

「そうですか。こちらは大方片付きましたので、連絡を取りたい場合はこちらへ」

 コートのポケットから取り出した紙切れを目の前のテーブルに置くだけ置いて、クラッサの手は自身の膝の上でゆっくりと組まれた。その姿勢からして、次に出る言葉が本題なのだと感じさせてくれる。漆黒の瞳は真っ直ぐ冷ややかに私に向けられ、凛冽な佇まいに変わっているのだから。

「大型竜飼育の第二施設は東方の反乱分子に売り渡されました」

「!!」

エリオット様がモルガナの長を使い物にならなくしたとは言え、アレは元々上に立つような資質を持ち合わせているわけではなく、ただの金づるでしたからね。私達にとっては勿論、反乱組織にとっても」

 目を見開いて私は耳に届いた事実を脳内へ速やかに廻らせた。クラッサがどうしてそれを私に伝えに来たか、それは現時点で問うような問題では無い、知らずともいい話。
 以前王子が城に戻ってくる前に組織を半分乗っ取っていたお陰でそれからは動きも無かった反乱情勢。それに加えて第三施設もが壊滅した状態ならば向こうも切り札が無くなり、自然消滅するだけの流れのはずだった。後は、ばらけた者達を少しずつ潰していく……
 それが、第二施設がその後も稼動し続けるとなると話は変わってくる。

「それをしたのは、君の上司か」

 驚愕を飲み込み、事実確認を続ける私に彼女は追い討ちをかけるように淡々と告げた。

「こちらにはこちらの事情があると言うことです。別に彼はそんな争い事に興味があるわけではありません。利害が一致した故の行動であり、それ以上手を貸すわけでも無い。ですが……荒事になるのはきっと好まないでしょうね」

「位置も知り得ている害敵を野放しにしろと言うのか」

「いいえ、伝えておいたほうが対策も練り易いでしょうから、これは単なる親切心からのものです」

「自分達で問題を掘り返しておいて、よく言う……!」

 私は語気を荒げながら固く握られた拳の中で爪が食い込むのを一人感じる。
 それをしたらどうなるか認識した上での行動なのだ。何の言い訳も聞けはしない。故意、意図的であり、それはもう害意以外の何物でも無かった。
 しかし私の怒気を怯むこと無く受け止め、毅然とした態度でクラッサは答える。

「既にある第二施設をどうしようと勝手でしょう。より良い買い手があの者達であっただけの話です。第三施設に居た者達もまとめて移っておりますので、それなりに技術は与えてあります。放っておけば……脅威になるでしょう」

「その情報をこちらに流せば自分は中立を気取れるとでも思っているのか。私は君に間者になれ、と生かしたわけでは無い!」

「皆が皆、貴女が掲げるような未来を望んでいるのではありません。あの者達はあの者達で、自らの手で勝ち取ろうとしているのです。それを分からずして行う改革など世間を瞞着しているようなものだと思いませんか?」

 そう詰問するクラッサの面持ちは決してふざけてなどいない。

「中立を気取ろうなどと感じさせてしまったことは詫びましょう。こちらの所業が更なる火種となることも分かっています。ですが……これらの問題を軽く往なした程度で進められても困るのですよ」

 落ち着いた物言いではあるが、そこに緩慢さは一切無く粛然としている。
 施設を売ったのはあの男だろうし、そこに私や国への他意が含まれているとは彼の人間性を垣間見た限り考え難い。だから、私に伝えに来たのはクラッサ個人の意志。
 彼女はゆったりと立ち上がり、短めの黒のコートを羽織るとそのポケットから小さな水晶のような物体を取り出して、それを床に叩き付けた。
 何をしたかったのかさっぱり分からない。砕けた破片を掃除するのは私になるのだが、新手の嫌がらせだろうか。
 コートの内ボタンを丁寧に留めながらクラッサは、こちらを見ずに言う。

「言っている意味は、分かりますよね」
 
「あぁ。君が随分悪趣味だと言うことがね」

 難題を更に増やして私を悩ませて楽しんでいるようだ。だが、決してただ楽しむ為にこんなことをしているのでは無いことも分かる。
 だからこれは皮肉を言ったに過ぎない。
 その皮肉に対し、ボタンを留め終えたクラッサの黒い瞳が再び私を捉えてきた。

「そうですか? 単なる鎮圧では燻っているあの者達を本当の意味で止めることなど出来ません。時にはもう何の希望も無くなるほど完膚なきまでに潰してやるのも大事ですよ」

「つまり、万全の状態の相手を始末しろ、と」

「少なくとも残党狩りなどと言うような流れはまたすぐに別の勢力が立ち上がるだけです。血を流すか否かは准将次第、考える時間はこうやって作ってあげたわけですから……いや、降格したのであればそれももう不可能でしょうか?」

 ふふ、と不敵に笑ったところで室内に突然青い光が煌々と輝く。眩しさに一瞬目を閉じ、腕で目元を覆いつつその光が収まったことを確認してから腕を下ろすとそこに立っていたのはクラッサの上司。
 だが以前目にしていた黒いスーツ姿ではなく、やたらと一般人に溶け込みそうなマホガニーが基調のボレロ。少し値の張りそうな絹織物を腰に巻いている以外は何の変哲も無い旅人で、クラッサの隣に立つと逆に物凄い違和感がしていた。
 と言うか、手に持っているのはどう見てもシュークリームである。何故この男がこの部屋にこんな姿でやってきたのか、頭痛に負けずに頑張るが全く浮かんでこない。
 呆気に取られている私同様、彼は彼で目が点だ。私の部屋を物珍しげに見回しながら、

「位置的に王都なのは分かるが、何の部屋だここは」

「彼女の私室です」

「何でそんなところに居るんだクラッサ。俺は確かフィルに送った気がしたんだが……」

 どうもクラッサがここに彼を呼び出したようだった。実は王子ですらも自室には招いたことなど無いのに、初めて踏み入った家族以外の異性がこの男になってしまったことに軽く目眩を覚える。
 無遠慮にじろじろと室内を物色している彼の視線は、剣が大量に飾られているウッドシェルフで最終的に止まっていた。

「無粋なことを聞いていては女性に嫌われますよ」

「迎えに呼ばれたんだからちょっと聞くくらいイイじゃないか!!」

 あぁ、迎えに来たのかこの男は……
 ようやく状況が理解出来たところで当惑していた気持ちも落ち着いてくる。

「で、話はもういいのか?」

 至極まともな突っ込みをしてから、それでも円滑に話を進めるその切り替えの早さはきっと今までに培われたものなのだろうと言うくらい自然だった。敵で無ければその苦労を察して同情するくらいに。

「はい」

「……ったく、追われる身のくせに王都に一人で来るとか何を考えているんだよ」

 全くの同感である台詞をぼやいた後にシュークリームを咥え、男の片手は不可思議な動きをしたかと思うとまた私の部屋には青い光が煌めき渡る。
 挨拶もせずに話したいことだけ話して去った元部下は、私の部屋に片付けに困るゴミと悩みを残して行った。
 どちらも……突き返したい。

 クラッサは私に、やるなら徹底的にやれと発破を掛けに来たのだ。何一つとして漏れの無いように、と。
 そうやって清濁全て向き合いながら進めた時……その際に踏み躙ってきた他の者の、私とは相対する希望が後ろで無残に積み上がった時、私に『それでも出来るのか』試しているのだろう。
 自分を通すとはそういうことで、もしかすると行き着いた先には何の救いも正義も無く破綻した結果だけが待ち受けているかも知れなかった。
 だが、あの人を犠牲にしている時点で、例え何があろうとも立ち止まるわけには……いかない。後悔すらも許されない。
 なのにまだ私は完全に迷いを捨て切れていないようだった。それはきっと、今鏡で自分の顔を見たなら一目瞭然。

 この甘さに潰されない為に、クラッサの施しを有り難く受け止めて荒事を回避する為の対策を練る。
 無論、謹慎期間などあっという間に過ぎ去った。
 

 
 謹慎期間を終え、王子の正式な婚約の儀の日取りも決まった頃にようやく私は通常勤務に戻らせて貰えることとなる。仕事は以前よりも多くなった気がしてならず、毎日陽が落ちるまで庶務室を借りて一旦世間とは切り離されたような日々が続く。
 そして、その日も一人きりで庶務室に篭もっていたところだった。城内でも比較的質素ではあるが、誰でも閲覧出来るような類の書類や雑務に必要な物が一式揃っているこの部屋に、本当に申し訳程度のノックの音が響く。

「失礼……致し、ます」

 返事など待たないのはこの部屋がそういう部屋だからで、まぁ別にそこまで失礼でも無いのだが『一応』と言った様子で挨拶をして、長いシルバーブロンドの髪をゆったりと背中で三つ編みに括った青年が入室した。
 現在の私に宛がわれた補佐官は元々王子の公務で護衛隊長を務めていた彼。スチールブルーの瞳は眠たげで、いつもどこを見ているのか分かり辛い。おまけに会話をしても何を考えているのか分かり辛い平坦な口調。
 彼の主要武器は飛び道具、しかも暗器に近いのでいざと言う時には頼もしいに違いないが、普段はとにかく扱い辛いことこの上無い部下である。

「何か用かい、ヨシュア

 コミュニケーションを取り難い彼には、こちらから要点を尋ねるに限る。問うとヨシュアは眉一つ動かさずに、何とも言い難い反応を示した。

「……それが、その」

 単語だけで考えたら困っているようなのだが、表情も声色も動かない為、やはり考えが読めないこの青年。
 手を止めて対応しているこちらとしては山積みの書類を早く片付けたい、その余裕の無さから苛立ちが顔に出てしまう。
 すると、ヨシュアの後ろからひょい、と顔を出した人物が私のその表情を真っ先に指摘してきた。

「そう怖い顔するなよな、目の下の隈も酷いしそれじゃ寄り付き難いぞ?」

「王子……」

 ヨシュアは王子に聞かれて私の居所を彼に教えたのか。しかし、教えたならわざわざここまで共に来る必要も無い。二人で尋ねてくる意図を先に読もうとするがなかなか答えも出ず、私は二人の顔を交互に見つめる。
 王子はヨシュアも室内にしっかり入れてドアを閉めると、真っ直ぐ私の元へ歩いて来て机上の書類の束を手に取ってぱらぱらと眺め始めた。

「どうか致しましたか?」

リアファルって浮気とかどこまで許してくれるタイプかって考えたんだよ。で、ほら、俺んとこに嫁がされるくらいだから予めそこは寛容であれ、と教育されてそうな……」

「だから何だと言うんです」

 入ってくるなり人の顔を貶して、次は未来の妻に早くも浮気前提でいこうとする話。そんな話を私に聞かせたら私が怒ることを分かっているだろうに何故話す。
 勿論返す声色も自然と低くなり、私は下から王子のその飄々と言ってのけた顔を睨み付けた。
 が、私の反応など意に介さぬ素振りで王子は手元の書類を三分の一ほど抜き取ってヨシュアに渡すではないか。

「な、何をして……」

 ヨシュアは黙って王子から受け取ると、そのまま室内の別の席に着いてペンを取り始める。その表情はやはり無表情。

「そうだったらいいなっつーか、そうじゃないと困る? みたいな。約束だから結婚はするぞ? でもそこクリアしないと絶対喧嘩が絶えないよなーと思ってさ」

「王子が先程からのたまっている内容は触れるまでも無いのでスルーしますよ。で、貴方はさっきから何を……」

 殴られたいのかこの人は、と一瞬思ってしまうくらいに正直過ぎる話を展開していく彼。けれども私が怒りを露わにしていると言うのに、お構い無しに更にもう三分の一ほどの書類を束から抜き取って、残りを私の手元に置くだけ。
 まるで口と手が別物のように違う動きをしていた。
 随分薄くなった書類の厚さが、かなりの量を引かれたことを物語っている。
 勿論書類を持ち去られては仕事にならないわけで、何故かヨシュアに回された分はさておき、今王子が持っている分を返して貰わなくてはこちらとしても困るのだ。
 なのに、

「か、返してください。それが無いと……」

「こういうぶっちゃけた話にも乗るくらいの余裕がお前には必要だと俺は思う。だろ? ヨシュア

「……はい」

「ほら見ろ」

 完っっ全にスルーされている。私が王子の戯言をスルーするが如く、彼は彼で私の発言を受け流していた。
 ヨシュアの同意を貰って満足した彼は、そのまま書類を持って退室しようとしてしまう。

「待ってください、それを持って行かれると仕事にならないではありませんか!」

 無視するにしてもあまりに過ぎた行動に、私はやや強めに訴えた。ドアノブにまで手をかけていた王子だったが、そこでやっと私の訴えに反応してくれる。
 ……随分と、憤った表情で。

「これはお前の仕事じゃない」

 何だかんだで今まで王子が私に本気で怒ることなど無かった。どんなに私が怒ろうとも、彼は笑って流したり、文句言いつつも本気で怒っていないことは感じ取れるものばかり。
 それに、甘えていたのかも知れない。
 だからその時、本気で彼が怒っていると感じて……反論したいことは山ほどあると言うのに声が出なかった。

ヨシュアは今俺が回した仕事くらいはこなせるし、内容的にも回すべきだろう。何であんな下っ端がやるような仕事まで自分でやってるんだ? 下の能力を把握し、うまく使うのも器量の内だぜ。で、こっちは問題外だ」

 そう言うと王子は先程抜き取った書類をひらひらと揺らして、

「お前なら出来るだろって、要は仕事押し付けられてるなコレは。だが出来るからってさせていいわけじゃ無い。没収だ」

「まっ……そ、それをどうするおつもりですか!」

「然るべき役職に渡すだけだから気にすんな」

 その瞬間、さぁっと血の気が引いていくのが自分でも分かる。王子にそんなことをさせては新たな火種が生まれかねない。私が背負えばいいだけの事柄に、そんな気遣いなど無用なのだ。
 目の前の机に両手を置いて私は勢いよく立ち上がり、気を取り直して異議を申し立てる。

「そんなことをしても誰も得などしません、私もそんな気遣い望んでなど……」

「気遣いじゃねぇよ」

 まただった。
 やはり王子はこの件に関して何故だか立腹しているようで取り付く島も無く、翡翠の瞳は冷ややかにこちらに向けられ、その低く掠れた声は聞き慣れない。
 けれど自ら作った空気を敢えて壊すかのようにすぐ様彼の声色は通常の音に戻り、ふい、とヨシュアに向けて諮問する。

「おいヨシュア、何で俺はこの書類を本来の担当者に回すべきだと言っているか分かるか?」

 自分で言えばいい回答を敢えて第三者の青年に回した。ヨシュアは少しだけ時間をおいてから、ゆっくりと意見を弁じる。

「一つ……その書類を、他者が閲覧する、事、自体……問題……。二つ……出来る、からと言っ、て……仕事、奪うのは、その者の、為ならず」

「珍しく言葉が足りてるじゃねーか。トロいのは相変わらずだけど」

「頑、張った……」

 表情が変わっておらず分かり難いが、褒められてどうも喜んでいるらしいヨシュアに答えさせてから再度王子は私を射抜くように見つめた。

「部下でも分かるようなことすら分からなくなったか? ウゼェ連中共々この書類を理由に一つ階級下げてやってもいいんだぞ」

「……っ!」

 そんな書類だけで階級を下げるなど本来不可能だが彼なら無理やり通してしまいかねず、それはその書類を本来の担当者に突き返すよりもずっと大きな火種となってしまう。
 王子の言っていることは尤もであり、反論の余地が無い。まぁそもそも私が請け負う仕事では無いのだから当然なのだが……脅し文句の暴君ぶりに納得がいかず、だからと言って言葉が見つからずに私は閉口するしかなかった。

 私が本来他の者がすべき処理まで行っていることは、王子は通常では知る機会が無いはずである。となれば、それを知り得ていた可能性があるヨシュアが王子に告げたと見て間違いないだろう。
 しかし何故ヨシュアがそんなことをしたのか。いや、そういうことをする為に私の補佐官として配属されたのだとしたら……元より王子の下で居た青年だ、そう考えた方がすんなり受け入れられる。

「この人事は……王子の御配慮によるもの、でしょうか」

 怒りに耐え、静かな語調で問うと、当の王子は逆に既にその憤りを落ち着かせたようで色を失いながらも答えてくれた。

「そうだな。コイツ喋るの苦手だけど、字ぃ綺麗だし文章書くのも得意なんだよ」

「なのに私が部下に仕事を回す様子が無いから、話が回ってしまった……と」

「いや、ヨシュアから言われたのは『驚くほど暇』ってなだけだ。で、クラッサに裏切られて部下も満足に使えなくなっちまったのかと様子見に来たワケ」

 その言葉を素直に信じたなら今回の事の発覚は偶然だろう。だが無駄に聡い王子のことだ、私の勘繰りを打ち消させる為に潤色しているかも知れない。
 そこまで考えて、己が主を一切信じることが出来ていない自分に気がついて胸が苦しくなる。
 本来目をかけて貰っている事実は喜ぶべきだと言うのに、素直にそう受け止められないのは後ろめたさがあるから。私自身が腹に一物を抱えているような人間だから、相手もそうだろうと思ってしまうのだ。
 そこから返事をしなくなった私のせいで、庶務室はしんと静まり返る。仕事が捗るように比較的閑寂な位置取りになっており、周囲からも騒がしさなど微塵も感じられない。
 やがて、最初にその静寂を破ったのはヨシュアのはしらせるペンの音。次は、王子の声だった。

「相変わらず不器用だな……」

 溜め息を吐いた口元を書類で覆いながら、彼は翡翠の瞳をすいと室内に流してその動きを留める。
 もはや奔放に生きている王子からすれば、懐く願いの大きさに振り回されている私はさぞや滑稽であろう。
 けれど、

「けど、迷わない奴は容易く道を違えるもんだ。それでいいとも思うけど潰れんように気をつけろよ」

 それもまたよしとせん、そんな軽い調子でフォローだけ入れて退室の挙措を再開させた。勿論、書類は持ち去って。
 クラッサにしか伝えていないとは言え、王子は一番直接的に私の行動に左右させられている。私がどうしたいのか既に察していても不思議ではなく、今投げ掛けられた言葉を鑑みればそうであることも明白だ。
 その上で、ああやって苦言を呈しに来た。遠くの目的を見据える余りに守るべき規則をお座成りにしていた私に。

「……全く、勝手に城を抜け出すようなお人が、言えたものか」

 既に王子は去り、私は苦笑しながらも閉じられたドアに投げ掛けるように悪態を吐く。室内に残っているのは私とヨシュア。私の独白に対し無口な青年は随分長い間の後、

「同意……し、ます」

 初めてほんのりと綻ばせた表情を私に見せた。
 
 
 
 それから正式な婚約の儀までは滞りなく進む。
 日に日に王子の表情が浮かないものとなっていたがまぁそこは目を瞑り、彼としても今更足掻こうなどと言うものではなく、単に気乗りしないものはしない、と言ったようで我侭を言って暴れるわけでも無かった。
 しかしその当日、そんな彼をどん底に陥れる大イベントが待っていたわけだ。
 来賓の一人であるライトが珍しく私に話しかけてくるので何事かと思えば、それはもう確かに嫌いであろう私に話しかけてくるに足る内容。
 クリスが空き時間を見計らって王子を訪ねてくる可能性があるからうまいこと王子の時間を空けて待たせていろ、とそんな具合の命令口調。その時点ではどんな内容で訪ねてくるのかと色々想像を張り巡らせるしか無かったが、結果は私のどの想像とも当てはまらなかった。

 完全に旅支度をして訪ねてきたクリスを見て、私は一瞬唖然とする。
 この子の行動は今まで見てきたものと未だ変わることなく、とにかく思い切りが良い。その潔さを半分くらい分けて欲しいくらいだった。
 距離と時間が王子を落ち着かせてくれるだろうか、良い方に捉えて考えてみたがすぐに不安要素が頭を過ぎって思わずクリスの目の前で眉を顰めてしまう。
 王子がまた以前のように城から逃げ出してしまったら……もう今度こそ終わりだ。

 けれど今度は多分、そうならない。
 クリスが去った後の王子の瞳には、それまで無かった覚悟の色が宿っていた。
 どういう方向での心境の変化かは判断出来なかったが、彼は彼で何かしら確固たる意志を持って後半の式典に臨んでいるのが感じ取れる。
 昼間以上によくやってくれていたが、それが偽りであると知っているだけに心苦しい。
 が、私同様に心配していたであろうライトとの会話を宴の裏で聞いてしまった時、もうそんな悩みは吹っ飛んだ。

「『妾でもいいです!』って言って戻って来るくらいアイツ好みそうな誠実人間目指そうと思ってだなぁ」

「それで無理しているのか……なら何も言わん、好きにしろ」

 片手で額を押さえている礼服姿の白髪の獣人同様、私も柱の影で脱力する。それはもう、両手で頭を抱えてしゃがみ込むくらいに。
 もはや国を変えるために王子を頼りにするという大前提から間違えている気がしてきた私は、色々な意味で吹っ切れることが出来た。

「頑張ろう……」

 私の小さな呟きは終わりに近付く宴の誼譟に埋もれて、きっと誰にも聞こえなかったことだろう……

【番外編SS ~散る羽根に霞む視点~ 完】